偉大な勝利の裏には常に「最高のパートナー」
キャディのエディ・ローリー(左)とフランシス・ウィメット(右)
ツアー選手にとって帯同するキャディは、良き相談相手であり、悩んだ時に背中を押してくれる味方であり、心強い仲間でもある。昔から名選手は優れたキャディを雇っていることが多い。「優れた選手だから勝利し、同時にキャディの評価も高まる」のか、「優れていると評判のキャディを雇ったから試合に勝てた」のか。どちらも正解だと思うが、つまりは“名選手には名キャディあり”なのだ。
1913年の「全米オープン」は、マサチューセッツ州のザ・カントリークラブで開催され、地元のアマチュア選手だったフランシス・ウィメットが出場することになった。
試合初日の朝、約束していたキャディはハウスにやってこなかった。代わりに弟のエディ・ローリーが現れ、「兄は来ない」と告げた。ウィメットは自分でバッグを担ぐ覚悟だったが、エディは「キャディをするために兄の代わりに来たのだ」と強く主張。ウィメットは「君はまだピーナツよりも小さいじゃないか」と一旦は断ったものの、スタート時間が迫っていたため、仕方なくエディをキャディとして雇うことにした。
72ホールを終了した時点で、ウィメットは英国から遠征してきていた当時最強の選手、ハリー・バードンとテッド・レイの2人と同スコアで並んだ。勝負は翌日、18ホールのプレーオフにもつれ込んだが、ウィメットはバードンとレイを寄せつけず、弱冠20歳のアマチュアが歴史的勝利を飾ったのである。
競技中、エディはショットのたびにアドバイスを送り、ウィメットを励まし続けた。当時のウィメットは20歳、エディはわずか10歳という若さだった。エディはその後、実業家として億万長者になり多くの若手選手を支援した。そしてウィメットと共に全米ゴルフ協会の役員を務めるなど、生涯アマチュアを貫きながらゴルフ界に多大な貢献を果たし、二人は生涯の友となった。
ジーン・サラゼンの奇跡を呼んだキャディの一言

現役時代のジーン・サラゼン
1935年の第2回マスターズ(当時はオーガスタ・ナショナル・インビテーション・トーナメント)に参加したジーン・サラゼンは、最終日の終盤、すでにホールアウトして首位に立つクレイグ・ウッドと「3打差」をつけられていた。
15番ホール(パー5)で、サラゼンのティーショットは軽いフック軌道を描き、距離を稼ぐことができた。2打目は緩い打ち下ろしだが、グリーン手前には池が口を開けている。ティーショットの飛距離によっては、果敢に2オンを狙うか、安全に刻んで3オンとするか、判断が非常に難しいホールでもある。
サラゼンがキャディの“ストーブパイプ”に「勝つためにはあと何打必要か?」と尋ねると、キャディは「4つの3が必要です(残り4ホールをすべて3打で上がること)」と答えた。
2打目の残り距離は235ヤード。4番ウッドを手にしたサラゼンは、迷わずピンを狙ってショットを放った。しばらくすると、グリーン周りから割れんばかりの歓声が上がった。ボールが直接カップインしたのだ。
パー5を「2」で上がるアルバトロス(ダブルイーグル)により、一気に3打を縮めたサラゼンは、続く16、17、18番をすべてパーで凌ぎ、見事にクレイグ・ウッドに追いついた。翌月曜日の36ホール・プレーオフに委ねられた勝負は、サラゼンが圧勝し、見事に優勝をさらった。
“ミラクル・ジョニー”を支えた殿堂入りキャディ

PGAツアー25勝しているジョニー・ミラー
金髪で長身、大きなスウィングから長打を放つジョニー・ミラーは、当時のツアーを代表する人気選手だった。PGAツアー25勝、メジャーでは1973年「全米オープン」、76年「全英オープン」を制し、通算35勝を挙げて1998年に世界ゴルフ殿堂入りを果たしている。
彼が伝説となったのは73年の全米オープンだ。最終日に「63」という驚異的なスコアを叩き出し、6打差をひっくり返しての大逆転優勝を果たした。このスコアはメジャーの最少スコアとして長く語り継がれ、勢いづいた翌74年には賞金王にも輝いている。数々の逆転劇から、いつしか彼は“ミラクル・ジョニー”と呼ばれるようになった。
この黄金時代にミラーのバッグを担いでいたのが、アンディ・マルチネスだ。選手の力を極限まで引き出す彼の評価は非常に高く、後にキャディとして殿堂入りを果たしている。
また、ゴルフの帝王と称されたジャック・ニクラスのキャディは、アンジェロ・アルジーだった。アンジェロは独特な風貌の持ち主で、まるでインドのヨガ行者のような神秘的な雰囲気を漂わせていた。メジャー18勝というニクラスの快進撃の傍らには、いつもアンジェロがいた。
マスターズの練習日、アンジェロはボールの落下地点に立ち、ニクラスが遠くから打つボールをワンバウンドで持っているシャグバッグ(球拾い用の籠)にすっぽりと入れていたという。それほどまでにニクラスのショットが正確だったという逸話だが、ニクラス自身は「私はキャディに対して、単にバッグを運ぶ以上の役割と人物像を求めている」と語っている。
トム・ワトソンとブルース・エドワーズの絆

ブルース・エドワーズ(左)&トム・ワトソン(右)85年マスターズ
1970年代になると、大学ゴルフ部出身の新しいタイプともいえる若手ツアー選手が台頭し始めた。彼らは“ヤングライオンズ”と呼ばれ、その一翼を担っていたのが若きトム・ワトソンだった。
ワトソンのキャディといえば、ブルース・エドワーズである。二枚目だが少しはにかみ屋の好青年だった。あるツアー会場で私が「君がブルースなの?」と尋ねると、照れながら「そうだよ」と小声で答えてくれた。はにかみながらも、その目はキラキラと輝いていたのがとても印象的だった。
70年代から80年代初頭にかけ、ワトソンはPGAツアーで大活躍し39勝、海外を含めて通算68勝を挙げた。メジャーでもマスターズ(77、81年)、全米オープン(82年)、全英オープン(75、77、80、82、83年)と次々に勝利を重ねた。当時、自分が海外ツアーの取材に行くと、必ずと言ってよいほどワトソンの優勝だった。
1973年にワトソンがブルースと出会った時、ブルースはまだ18歳だった。それから30年という長きにわたりワトソンのバッグを担ぎ、その間に賞金王に5度輝く圧倒的な強さを見せた。ワトソンの偉大な記録の影には、ブルースという最高のキャディがいたことを決して忘れてはならない。
ブルースは2004年4月8日、難病(ALS)闘病の末にこの世を去った。まだ49歳という若さだった。
ブルースは2004年4月8日、難病でこの世を去った。まだ49歳だった。
文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中。






