「週刊ゴルフダイジェスト 10月20日号」に掲載された、故・川田氏の軌跡を辿る追悼記事。実は誌面の都合上、泣く泣く大幅なカットを施しての掲載となっていました。
しかし、担当編集者からの「川田さんが最後に遺してくれた貴重な生い立ちや肉声を、一文字も削らずに読者の皆様へ届けたい」という強い熱意を受け、この度、WEB限定で【約8000字の完全版】として全3回にわたり全文公開いたします。「みんなのゴルフダイジェスト」でも前編となる第1回をご紹介。
スポーツエリートとしての華麗な青春時代から、未経験で名コースの設計を手掛け、世界一の超名門クラブのメンバーに選ばれるまで――。日本のゴルフ界に多大な貢献を果たした氏の、ダイナミックでユーモアあふれる「本当の自分史」を、余すところなくお楽しみください。【全3回中1回目】
小社から提案した“自分史”に「自分を語ることは結局、自慢話になるから」とためらいながらも取材に応じた川田氏。しかし、その途上で病魔にたおれ中断したままに終わった。聞き手を務めたライター、滝田真理さんの惜別の思い――。
川田さんから連絡があったのは去年の夏のことでした。
「これまで話したり書いたりしてきたものが大量にある。少し整理したいと思っているんだけど、手伝ってもらえませんか?」
長く競技委員を務めてこられたメジャー競技やその開催地、コース設計の解説など、川田さんには事あるごとに取材をし、貴重なお話をうかがってきたので、少しでもご恩返しができればと、喜んでお引き受けしました。
とはいえ今週は成田、来週は霞と川田さんは相変わらずお忙しい。月に1、2回、都内のオフィスにいらっしゃる日を選んでうかがいましょうということになりました。
オフィスの棚やデスクに積まれた資料は確かに大量にありましたが、雑誌や新聞に連載してきた記事などがきれいにファイリングされ、手書きの原稿も楷書のお手本を少しくずしたような字でとても読みやすい。作業ははかどり、いつしか、そこに書ききれなかったことを川田さんが話し、それを書き留めるのがメインになっていきました。
これが実に興味深く、合間に話される川田さんの生い立ちやエピソードがまたダイナミックで楽しかった。
ゴルフ界に大きな貢献をされた川田さんを偲び、ここでその一部をご紹介したいと思います。
ドジャースの誘い
川田さんは子供の頃から大学まで野球一筋。二十歳過ぎまでゴルフとはほぼ無縁の生活を送っていた。
1961年、高校野球の埼玉県予選に立教高校野球部の正捕手として出場していた時に、来日中のオハイオ州立大学の野球部監督が視察に訪れ、直接スカウトを受ける。
立教大学入学後、フルスカラシップ(奨学金全額支給)で留学することになり、留学中には4年先輩にあたるジャック・ニクラスとも知り合った。全米アマに勝ち、全米オープンでプロ初優勝。その後、マスターズと全米プロでも初優勝を飾った頃だった。
夏休み、ロサンゼルスで子供たちのベースボールキャンプの手伝いのバイトをしていた時、川田さんに今度はドジャースから声がかかる。
「各地からやってきた子供たちを早起きさせて一緒に走ったり、キャッチボールしたり、ノックをしてやったりするのが僕の役目だった。ある日、ピッチャーと僕の2人が呼び出されて行くと、そこに視察で訪れていたドジャースのスタッフがいた。
訳も分からずそのまま車でドジャースタジアムに連れて行かれ、ユニフォームを着せられた。当時、日本ではプロとアマの交流は禁止されていたからプロチームのユニフォームを着ることなどありえなかったけれど、アメリカはまったく問題ない。バッティングキャッチャーをやったり、ブルペンで球を受けたりもした。
ひと通り終わると、『フィリーズとの試合があるから、来週も来て手伝ってくれ』と言う。わかりましたと答えたが、一緒に来たピッチャーの姿はそこにはなかった。
試合は夜8時開始だったので5時半頃にスタジアムに行くと、早くもスタンドが観客で埋まり始めている。僕は打撃練習のケージに呼ばれ、バッティングキャッチャーをやるよう指示された。
しばらくすると、長身のすらっとしたピッチャーが肩慣らしをするから受けてくれと投げ始めた。ところがそれがホップしてくるようなすごい球なんだ。これはエラーするわけにはいかないと思ったよ。
およそ20球。何とか無事に受けることはできたものの、ミットを外した手は赤くパンパンに腫れ上がっていた。ピッチャーの背番号を見ると32。65年26勝、66年27勝を挙げて最多勝と奪三振最多記録を何度も塗り替えたサンディ・コーファックスだった。
練習後、スタジアムの奥にあるクラブハウスの一室に呼ばれた。そこにいたスカウトの上役みたいな人が『君はメジャーリーガーになりたいか?』と聞いてきたが、僕は『ノー』と答えた。今グラウンドにいるあの人たちに勝てるわけがないと思ったから」
日本人初のメジャーリーガー、村上雅則投手(SFジャイアンツ)は1学年下。もしドジャース入りしていたら川田さんが日本人初だったかもしれませんね、と言うと川田さんはにっこり微笑んだ。

留学した米国オハイオ州立大学野球部(前列中央)
4カ月でハンディ9
ゴルフを本格的に始めたのは帰国してから。東京オリンピック開催直後の1964年11月、お父さんが入会していた霞ヶ関カンツリー倶楽部のジュニアメンバーになり、2カ月後の翌年1月にハンディ11を取得。入会から4カ月で9になり、2年10カ月後、日本オープンに出場した。
「親父は一時期ヨーロッパで暮らしていたことがあり、向こうでゴルフを覚えてきたと言っていた」
川田家はスポーツ一家だった。父の川田俊之氏は1937年に霞ヶ関CCに入会してゴルフを本格的に始め、1942年の日本アマ(※川奈ホテル。戦前最後の大会)に出場。もともと水泳選手で日本水泳連盟の役員を長く務めた。叔父の川田大介氏は東大でラグビー選手。日本ラグビー協会役員で日本のナンバー1レフェリーとしても知られていた。
「親父には面白い話があってね。開成中学在学中に、ある事件を起こしたんだ。当時の開成は今よりももっと東大進学一直線で勉強以外はすべてご法度だったらしい。部活動もないし、ましてや対外試合なんてとんでもないという時代に、神宮で水泳大会が行われることを知った親父は、友だちから『お前、出てみろよ』とそそのかされて、こっそり出場しちゃったんだ。
水泳が得意な親父は2位に入って翌日の新聞に載ってしまい、見事停学処分に。ところがこれを知った立教からスカウトが来て編入することになり、日本代表メンバーにも選ばれた。この一件がなかったら僕も東大を目指していただろうし、立教に進み、オハイオに行くこともなかったと思う」
霞ヶ関のジュニアメンバーの頃、お父さんはゴルフ代は自分で払えと言っていた。小遣いだけではとても足りないと訴えると、足りなければ自分で稼げと言われた。
「親父とは何百回、一緒に霞に行ったかわからないけれど、払ってもらったことはついに一度もなかった。だから家庭教師を4人分掛け持ちして、終わると東武東上線に乗って霞の練習場に直行。最初にコイン3枚分打って、あとは打ったボールを拾って打ち続けた。あの時はケチな親父と思ったけれど、今なら理解できる気がする。
親父の最高ハンディは2。僕は1になった時にスコアを提出するのをやめた。ハンディ0というのは日本アマの優勝戦線に残って、いい勝負ができるレベル。私はその領域に達していないと思ったから」
1967年、霞ヶ関の倶楽部選手権に出場した時のこと。前半の18ホールを終えると、ハウス前のパッティンググリーンにパーマー、プレーヤーと共にテレビマッチの撮影で来日中のニクラスがいた。留学先で知り合って以来の再会だった。
「『Tai、ここで何してるんだ?』と聞くので、クラブチャンピオンシップに出場しているところだと答えたら、『スコアは?』と。75と答えると、にやりと笑って『グッドスコア』と褒めてくれた。翌日聞いたら、ニクラスのスコアも75だった(笑)」
その年のメダリストになった川田さんは新幹線に飛び乗り、深夜、神戸に到着。翌朝、廣野ゴルフ倶楽部で行われた日本オープンに出場した。日本オープンには翌68年(総武CC)も出場。22~23歳のことだった。
川田さんにはサラリーマンの経験もある。
「70年代に入り、友人に誘われて貿易の仕事を手伝うことになったんだけど、入社前に1カ月間、思う存分ゴルフしておこうと思いついた。勤め始めたら長く休めるチャンスは二度とないと思ってね。
晴れて実現したけれど、それまで74.9だった平均スコアが、22日間ゴルフをし続けたら79.1になった。以前は、前の晩は眠れないほどワクワクしていたのが、また明日もゴルフかと考えるようになっていく。何事も過ぎたるは…を痛感して、友だちの待つ職場に行くことにしたんだ」
「どんな練習をしてきたんですか?」と聞くと、
「特別なことは何も。誰かに教わったこともほとんどなかった。でも、参考にした本が1冊だけある。これは役に立った」
壁一面、洋書がずらりと並ぶ本棚の、下のほうから読み込まれたペーパーバックを大切そうに取り出した。ニクラスの著書『MY 55 WAYS TO LOWER YOUR GOLF SCORE』。表紙を開くとニクラスからのメッセージとサインがあり、中には川田さんの日本語や英語のメモがいくつも書き込まれていた。

(左)霞ヶ関CCクラブチャンピオン (右)1967年、日本オープン出場
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たった4カ月でハンディ9を取得し、のちに帝王ジャック・ニクラスから「グッドスコア」と称賛されるほどのゴルファーとなった川田氏。しかし、彼の人生のダイナミズムはプレーヤーとしての活躍にとどまりません。
ドジャースからの電撃スカウトやコーファックスとの投捕練習、ニクラスとの心温まる再会——。圧倒的な身体能力と恵まれた環境から、わずか4カ月でハンディ9に到達した前編の青年時代。
続く【中編】・【後編】では、川田氏がなぜこれほどまでに世界で愛され、ゴルフ界の中枢へとのぼりつめたのか、その知られざる真相と「超人的な天才性」が明かされます。
◆【中編】の見どころ
- 「ジャパンボウル」指揮から「R&Aレフェリー」へ
アメフトのビッグイベントを率いながら深夜の映像翻訳に没頭。ある日突然届いた1枚のFAXから始まった、世界最高峰トーナメントでのレフェリー人生 。 - 未経験からのコース設計家デビュー
「一度も設計したことがない」と断りながらも誕生させた名コース。中学時代の「3.2センチの縮尺計算」に隠された、意外すぎる天才の伏線。
中編はMyゴルへ 全文無料公開中
◆【後編】の見どころ
- 原稿なしで全米を湧かせた「前夜のルーティン」
超人的な記憶力で挑んだUSGA「ジョー・ダイ賞」授賞式。手元資料ゼロで名スピーチを生み出す、驚愕の思考プロセス。 - 100年で日本人わずか2人! 超名門「パインバレー」メンバーの真実
ショーン・コネリーとラウンドし、文字のない特注エンブレムを纏う。世界の超VIPたちと肩を並べた「秘密の世界」の裏側。
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PHOTO/川田恵美子夫人提供
週刊ゴルフダイジェスト2026年10月20日号より


