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1978年のマスターズ2日目の夜のことだ。青木功は予選落ちしていた。それでも最後の4メートルのパーパットを必死の形相でねじこんだ。
「あのパットはどうしても入れたかった。あれが入るか入らないかで、これからの俺のゴルフ人生が変わってしまうような気がしてね。
俺、今年36歳になるんだ。この歳になって、ようやくゴルフは棒だけ振ってりゃいいってもんじゃないことがわかったんだ。
いまの歳になって、ようやく友達の大切さや、人生ってやつ・・・・・・うん、何かわかりかけてきたんだ」
一時期の青木は、ともすると自分のスタンスを忘れることがあった。尾崎というライバルだけを意識していた時代があった。きっと青木はスーパースターということを勘違いしていたのだろう。
尾崎という男のスーパースターという部分の亡霊を追うように、服装や行動などまで意識していた時期があった。が、そうやってもつまるところ、なにも得るものがなかったのだと気づいたのである。
「俺は素っ裸でプレーできるようになったんだ」と聞いたのは、その年の太平洋マスターズのときだった。
青木が世界マッチプレー選手権に優勝したのは、この年の晩秋である。尾崎のゴルフスタイルとは違うひとつの極点に、自分と自分のゴルフを明確に位置づけたのがこの頃である。
フックからスライスへ。青木の決断は正解だった。尾崎は、言う。
「本当はスウィングを覚えるのに、フックから入ったほうがいいんだ。僕が苦労したのは、スライスでスウィングを覚えたことなんだ
フックでスウィングを覚えて、スライスに変えていく。これがいい。なぜならボールを上手くとらえるという感覚は、やはりフックで覚えたスウィングだと思うから」
青木と違って尾崎は、別の悩みからスタートして、スウィングを構築していった。尾崎がスランプといわれていた時期の話である。
決して飛ばすことを捨てない、つまり第一打で果敢なドライバーで攻めていき、OBも恐れないでスコアを乱していく尾崎に「何もドライバーを使わなくたって・・・」という言葉がよく囁かれた。
尾崎も耳を貸そうとはしなかった。むしろ意固地なまでにドライバーを振って、攻めていった。
「僕が飛ばすことを捨てたら、尾崎将司でなくなってしまうじゃないか。プロゴルファーは夢を与えるのが仕事なんだから。一般の人が追いつかないほどの飛距離。これもひとつの夢。
そして、青木さんのように凄いテクニックで寄せてパーを拾ったり、チップインしたり、ロングパットを沈めたり・・・・・・それもひとつのスタイル」
青木功は、ひとりいればいいということなのだ。尾崎はあくまでも「飛ばし屋・尾崎」のイメージで、スランプ脱却を考えていた。
「仕方ないよ。俺はショットメーカーなんだから」と言った。そして尾崎も青木も、まるで正反対の対極のゴルフであることを確認し、自分のスタイルを確立させていったのだった。
(1990年1月チョイスVol.52)