今週の月→金コラムは、今週開幕する全米オープンにちなみ、日本人がメジャー優勝に一番近づいた瞬間、1980年の全米オープンにプレイバック。青木功とジャック・ニクラスの4日間にわたる死闘、そのドラマをお届けします。
チャコ樋口につぐ快挙か! ――と日本全土を騒然とさせた青木功の大健闘。しかし、“全米”のビッグ・タイトルは、青木が精一杯に伸ばした指先をかすめて、帝王の手に落ちてしまった。それでも、日本のゴルフ史始まって以来の快挙には違いがない。
日本を離れる前、コースレイアウトを一瞥して青木は言った。
「1日5オーバーがひとつの目安だ」と。この考えで実際にラウンドしても、少しも変わるところがなかった。
「ラフは長く、雑草がからみあってどうしようもない。ラフに入ったら、どんなボールが飛び出すか予想できないよ。しかも距離がやたら長いからね。ウッドばかりだよ、セカンドは。18番で初めてピッチングウェッジを第3打で使えたよ。ここのコースでスコアメイクを考えるなら、どこまでグリーンをとらえるか。そして、グリーンを外した時にどこまでパーが拾えるか、だろう。でも最終的にはパットの勝負だ」
日曜日、バルタスロール入りした青木は、月曜日に初練習した後、
「想像以上にタフなコースだ。ボギーが出るのは仕方がないとして、2打目をアイアンで狙える数少ないチャンスをいかに生かしていくかが鍵になるだろう」と語っていた。
事実、月曜の練習ラウンドが11回、火曜は休んで、水曜が9回。この数字はドライバーを除くウッドクラブの使用回数。いかに距離が長いか。誰が見ても、青木とて苦戦を強いられると思って当然だ。本人でさえ、ボギーを覚悟しているのだから、まず予選通過が目標になっていた。
1980年週刊ゴルフダイジェスト7月2日号