ギアの進化を語っていると、これってジャンボのおかげだよね、という話がよくある。ジャンボ尾崎が不世出のゴルファーであることは言うまでもないが、ジャンボはその戦績だけでなく、いろいろなものを我々に残している。その大きな功績のひとつが、メタルドライバーへの大転換。今週の「週末コラム」は、ジャンボ尾崎から始まった、メタルヘッドへの“ドライバー革命”を振り返ってみたい。
86年カシオワールドで
米ツアー選手がメタルで
飛ばしまくっていた
ジャンボにとって、メタルとの出合いは衝撃的だった。場面は1986年ツアー終盤のカシオワールドオープン。メタルを手にした何人かの米ツアー選手が、飛距離で指宿を攻め立てていた。それも以前は中距離ヒッターでステディさが売り物の選手たちが。優勝したスコット・ホークもそのひとり。
「何だ、これは!」
日本選手は一様に目を丸くした。当時の日本ツアーは全員がパーシモンを使っていた。というより、他の存在は考えられない時代である。飛ばし屋になったホークの存在を目にしても、メタルへの反応は否定的だった。その中で、ジャンボだけが積極的な関心を示したのである。
これで特大飛距離が得られる? ならば使わない手はない。
“何でもナンバーワン屋”のジャンボにとって、中でも絶対に譲れないナンバーワンが飛距離。飛距離を武器にゴルフをメジャースポーツに押し上げたジャンボにとって、いつの時代もゴルフの中心は飛距離だった。試してみなくては気が済まないのである。
オフに入るやいなや、ジャンボはホークが使っていたテーラーメイドのメタルをかき集め、ハワイ合宿へと突入した。折しも米国生まれの新興メーカーだったテーラーメイドが日本市場をターゲットにしはじめた時期とも重なった。
87年開幕から1カ月後に
メタルで2週連続優勝
しかし、開幕の静岡オープンでは、前年のカシオ同様、奇妙な金属ヘッドに興味を示す日本ツアー選手は稀。ジャンボとその軍団員だけが、足繁くテーラーメイドのスタッフのもとに通った。スタッフはいち早く方向転換する。
「他の選手への積極的な売り込みは止めました。それより『ジャンボさん専用ですよ』というスタンスを取った。日本におけるジャンボ尾崎の影響力を考えれば、大きな反応が起こるはず」
この方向転換は、ジャンボの性格を考えても大正解だった。ジャンボは自分のためにあれこれ労を厭わないスタッフを信頼し、共同でメタルをツアーで戦える武器へと磨いていったのだ。
元来日本のプロは職人気質。加えて、クラシックドライバー収集家としても知られていたジャンボが、無機質なメタルを手にすることも奇異の目で見られていた。しかし、
「一番飛ばせる男が、もっと飛ばせる道具を使ってどこが悪い。ギャラリーを楽しませるためにも、常に一番飛ばして優勝を目指す」
他のプロが遠巻きに見つめる中、ジャンボとテーラーメイドのスタッフの試行錯誤は、日に日に成果を挙げていった。当初はパーシモンが主体で臨み、ときおりいい仕上がりをしたメタルを試すといった程度が、次第にメタル使用のラウンドが増えていった。
開幕から1カ月後、中日クラウンズ、続くフジサンケイと、ジャンボはメタルで2週連続優勝。3週連続優勝は逃したものの、高橋勝成との息詰まる攻防を展開した日本プロマッチまで。この3週間でジャンボは日本ツアーにメタルドライバーを植え付けてしまったのである。
当時のスタッフは、このマッチプレーを境にメタル転向者が急増したと振り返る。
「3サムでプレーして、ひとりがメタルを使っていると、その選手が必ずオナーになった。するとラウンド終了後、あとの2人がメタルを試しにやってくる、といった感じです」
メタルブームは、すぐさまアマチュアの世界にも広がった。しかし、ツアー現場でも一般市場でも、メタルは種類も量も限られていた。この時点でメタルの先駆者的テーラーメイドは、日本市場に最高の形で参入した。
(月刊ゴルフダイジェスト2003年6月号より抜粋)