プロゴルファーであり、数々の作品を世に出した作家でもある坂田信弘が2024年7月22日に鬼籍に入った。処女作に当たる1984年の自戦記は掲載済みだが、代表作といえば『週刊ゴルフダイジェスト』に寄せた「マスターズ観戦記」だろう。坂田が初めてオーガスタに降り立った1985年の観戦記を練習日の火曜から最終日の日曜まで6回に分けて紹介する。氏の独断と偏見、そして、ユニークな視点を味わっていただきたい。改めて哀悼の意を表します。<2回/全6回>

A・ビーン、F・ゼラー、G・ノーマン、J・ニクラスが9時30分アウトよりスタートした。

ショット練習は1人一球と決められている。ショットの安定度はニクラスが一番である。曲がるのはノーマン。彼は松林の中でキンカンやっていた。4人とも舞い上がるような高い球を打っていた。

ニクラスはピンパターを使っていたが、不調であるらしい。距離は合うが、ラインが微妙に違っている。ニクラスは明日のカップ位置と思われる地点にティペグを差し、ライン研究をしている。

オーガスタのギャラリーは5メートルに寄ると拍手する。2メートルに寄れば歓声が生まれ、それから拍手が起こる。乗っただけでは拍手一つない。静かなものである。ロングホールを2オンするか、ロングパットを沈めた時は“ウオー”とどよめきの後、拍手、また拍手がやってくる。

ゼラーは根っからのゴルフエンターテイナーと思う。

9番ティにて、ニクラスが構えた時、50すぎの女性ギャラリーと話していたゼラーが、突然ニクラスの前を横切った。ニクラスは構えをほどき、ゼラーに二、三言いっている。ゼラー曰く「あなたの写真を撮りたい可愛い娘さんが邪魔だというのでどいたのさ」ギャラリーが湧いた。16番ショートホール、190ヤード。ゼラーがバックスウィング始めた時、ティグラウンド後方。女性ギャラリーがしゃべった。ゼラーは構え直して打ったが、ワザとであろう。右奥のバンカーへ打ちこんだ。

ゼラー、やおらドライバーを持ち出し、ティアップするではないか。観衆は騒ぎ出す。ゼラーはその女性に向かい「あなたのためにドライバーでオンさせてみます」。残念にもショートして、グリーンエッジではあったが、ギャラリーは大喜び。ニクラス、ビーンも大笑いしていた。

みごとなことにスウィングは全く変わらない。スピードを抑えていただけである。すべて高等な技術である。このエンターテイナーが試合中、必死の形相で闘っていく。ギャラリーもそのことを知っている。そこに親近感を覚えるところであろう。

画像: 青木はたしかにオーガスタのヒーローである(写真は1985年マスターズでの青木功)

青木はたしかにオーガスタのヒーローである(写真は1985年マスターズでの青木功)

4時頃、18番グリーン裏に「アオキ、ナカジマを知っているか」と、グリーンジャケットを着た50すぎの男が寄ってきた。

「もちろん、彼らは私の友人だ」というと、実にうれしそうな声で握手を求めてくる。

私が会ったアメリカ人すべてが2人の名を親人のような親しさで口にしていた。

アメリカ人は青木を尊敬している。青木功は苦しい長い闘いを続けてきていて、今月、アメリカでのスターの位置を築きあげている。そして驚いたことにジャンボ尾崎の名をマスターズのギャラリーは忘れていなかった(※編集部注/当時、1979年を最後に尾崎はマスターズに出場していない)。尾崎は強烈な印象をオーガスタに残している。

私の書いていることは、すべて事実である。現在、青木功はアメリカの中にあってもヒーローである。

青木功は先週痛めた左手ひじを休めるため、今日のパー3コンテストは、棄権している。

私は、「青木は大丈夫?」という質問を多く受けた。すでに青木は日本だけのものではない。中島も青木のあとを追っている。中島は成しうるであろう。

アメリカ人は、ヒーローに己れ自身の青春を求めている。強い、勝てる、それだけではない何かをヒーローに求めている。

青木は間違いなく世界の青木である。

※本文中の表現は執筆年代、執筆された状況、および著者を尊重し、当時のまま掲載しています。
※1985年5月1日号 週刊ゴルフダイジェスト「坂田信弘のマスターズゲリラ日記」より

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