小山田雅人
1967年生まれ、栃木県出身。国内外の障害者ゴルフ大会で数多く優勝。25年間務めた栃木県職員を退職し、14年PGAティーチングプロB級会員に合格(24年からA級)。日本障害者ゴルフ協会理事、ジャパン・ハンディキャップゴルフ協会理事
義手のレッスンプロ「やればできる !」
右手首から先が、彼にはない。
しかし、「ないもの」を求めない。「あるもの」だけを見て考える。
そんなシンプルな思考で、幼い頃からいつも前向きに生きてきた。
左手と、右の義手。「あるもの」を駆使し、ゴルフという生きがいを獲得していった。
「父の正男が精肉店を営んでいて、物心ついたときにはもう左手だけで店の手伝いをしていました。事故に関して父から何も聞かされたことはなかったんです。生まれつき、右手は手首から先がないものだと思い込んでいました。
小学校6年生のある日、テレビの取材があり、私とは別室で、両親がインタビューに応えていたんです。私には何を話していたのかはわかりませんでした。後日、その放送を見たことで、自分の事故のことを初めて知りました。挽肉を作る機械に、2歳の私が手を入れてしまったと。母のサト子がおぶっていたはずの私を、店が忙しくて置いてしまったと後悔していました。『私の責任です』と。
それを見たとき、両親をこれ以上追い詰めるのはやめようと思い、事故のことはもう聞きませんでした。実は事故直後は手の甲の半分ぐらいが残っていたけど、いずれは義手になるからと、医師の判断で手首も切断したと父から聞いたのは、ほんの10年ほど前のことです。
両親は私を特別扱いせず、3人の兄妹たちと同じように厳しく育ててくれました。右手がないから鉄棒ができないことで、小学校でいじめられました。泣きながら帰ると、『右手がないことは悪いことなんかじゃないと、相手に言い返してきなさい』と家に入れてもらえませんでした(笑)。
高校まで野球をやり、中学ではエースとして県大会の決勝まで勝ち進みました。結果がいいと『スゴイ』。悪いと『お前のせいだ』と言われていました。どうしてもメディアから注目されてしまうので、他の選手が緊張してしまうと。私の存在を迷惑に思う父母もいたのでしょう。相手チームの監督までもが、『障害者の投手相手にはバント攻撃ができなかったから』と敗因を語られていました。バントされてもいいように、私たちはたくさん練習してきたのに、また障害のせいか、団体スポーツは、つまらないなと。
小学校高学年のとき、ゴルフを覚えました。父のクラブやボールを借り、小高い位置にある田んぼをグリーンに見立ててね。周囲からそこを狙ったり、空缶を埋めてパットをしたり。当時はただの遊びでした。本格的に始めたのは、栃木県職員になった19歳のときです。団体スポーツとは異なり、ゴルフは自分とコースとの闘いでした。私の障害も、他の人にはまったく関係がない。それが心地よかったんです」
両手を駆使できたとしても、ハンディキャップゼロまでには、どれだけの努力を要するだろうか。
彼は片手ながら、健常者のトップアマとのマッチプレーを制し、クラブチャンピオンを7度も獲得。そのプレーは、斬新な手段を試みる独創性と、簡単な近道を見出す効率性に満ちている。「利き手がない」ということをマイナスにはとらえず、「義手を生かす」というプラスに変える。
「高校の合格祝いに、父にお願いしてゴルフへ連れて行ってもらい、初ラウンドが52の48で100でした。もうハーフを回ったら、44が出ました。
その後ゴルフはしませんでしたが、就職は自分と同じ障害者の手助けがしたいと、福祉事務所で働くために公務員試験を受けて合格し、初めての給料の時に、初ラウンドのことを思い出して新品のフルセットを買っちゃいました(笑)。
ところがすぐに悩みだして、もっと飛距離を出したい、と欲が出た途端、球が右にしか飛ばなくなったんです。そこからは練習場通いで、やっと見出したのが、手の甲が上を向くぐらいのフックグリップにして、極端なオープンスタンスで立ち、ドローを打つことでした。それでようやく真っすぐ飛んでくれて。
もちろん、義手の私に教えてくれる人はいませんし、義手のための教本もありません。実際に球を打ってみて、自分で気付くしかない。すべて自己流で、握り方、立ち方、振り方を編み出して、義手を生かしてドローで250ヤード飛ばします。
80台を出すまでに8年もかかりました。けれどそこからハンディキャップゼロまでは5年でした。その間、私は相手にハンディをいただいたことはなかったです。もらってしまうと、努力する気持ちが薄れてしまう気がしていたんです。クラブチャンピオンになってからは、逆に相手から『ハンディをください』って言われるようになりました。もちろん、『どうぞ』って(笑)」
どれだけ過酷な運命に翻弄されなければならないのだろう。
片手でトップアマへと上り詰めながらも、脳腫瘍で生死の境をさまようことに。開頭手術を前にクラブをすべて捨て、ゴルフと決別する覚悟をする。
そして、生還した彼は、「プロになる」という新たな夢へと挑む。幼い娘の記憶に残すために。自己の生きている証しのために。
小山田さんに聞いた、一問一答 !
Q.小さい頃の夢は ?
A.サッカー選手
Q.自分の性格を分析すると
A.細かい
Q.宝物は ?
A.子ども
Q.プロになってよかったこと
A.娘に「プロって格好いい」と言われたこと
Q.やり残したこと
A.シニアツアーに出てみたい
Q.目指していきたいこと
A.パラリンピックにゴルフを正式認定してもらうこと
取材・文/平山讓
写真/増田保雄
協力/那須陽光ゴルフクラブ
※2024年10月号 月刊ゴルフダイジェスト「ターニングポイント」から一部抜粋。
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右手首から先を失った小山田さんが編み出した「義手を活かしたドロー」の誕生秘話や、新たに待ち受ける困難とは……。続きは月刊ゴルフダイジェスト10月号、またはMyゴルフダイジェストにてチェック!