「勝ちたいと思ったことがない」「優勝よりも2位がいい」。そんなプロゴルファーがいるのだろうか。「賞金王争いをしたときも、欧州ツアーに挑んだときも、プロゴルファーという仕事が、違和感でしかなかった」という、佐藤信人プロ。2024年12月号の「月刊ゴルフダイジェスト」では、そんな目立つのが嫌いで柔和なトッププロのターニングポイントに焦点を当てている。「みんゴル」読者にもお裾分けしよう。
画像: 佐藤信人プロ

佐藤信人プロ

佐藤信人

1970年生まれ、千葉県出身。薬園台高校卒業後、米国に渡り、陸軍士官学校を経てネバダ州立大学へ。93年に帰国してプロテストに一発合格。近年はゴルフ中継の解説やラウンドリポーターとして活躍している。ツアー9勝。

“違和感”の20年間

「自分でも信じられない」。長いゴルフ人生で佐藤信人は、よくそんな言葉を口にしてきた。その始まりは、アマチュアの試合に出場し始めたばかりの高校生の頃だった。同年齢で2人、世界ジュニア選手権の日本代表メンバーに選ばれた。飛ばしたいわけでも、勝ちたいわけでもなかった。「その他大勢の下のほう」だったという彼が、「主役」である丸山茂樹と一緒に渡米することになった。それが違和感の始まりだった。

父は証券会社のサラリーマンでした。部の仲間たちと常陽CCの会員権を買ってゴルフを始めていました。僕が初めてクラブを握ったのは、小学5年生くらいだったと記憶してます。初ラウンドは6年生でした。自宅の裏庭でアプローチの真似事をしたんです。そこからは我流の父に教わって、コースデビューのスコアは133でした。父は穏やかな人で、怒られるようなことはなく、練習もラウンドも楽しかったです。他のプロのような特に変わったエピソードなんてない、平凡な子ども時代です(笑)。

画像: 小学5年生で初めてクラブを握った

小学5年生で初めてクラブを握った

中学時代は陸上部で、ゴルフからは離れ、高校受験に備えるために部活動が5月か6月くらいで終わるのですが、その頃から時間ができたのでまたゴルフに行くようになりました。試合に出るわけでも、プロを目指すわけでもなく、常陽CCで父の同僚たちやコースのメンバーさんなど「おじさんたち」と回る。それが僕にとってのゴルフでした。

千葉県立薬園台高校1年生のとき、テレビで日本ジュニアの中継を見たんです。2年生の深堀圭一郎さんが優勝していました。その直後、父に勧められるままに「どうやったらこの試合に出られますか?」と電話で問い合わせて翌年エントリーしました。消極的な性格でしたし、飛ばしたいとか、勝ちたいとかもなく、そんなにゴルフに夢中ではなかったです。周囲にゴルフに興味がある友人なんて1人もいません。高校帰りにビリヤードやゲーセンにはよく行きましたけど、練習場へは週に1、2回でした。プロゴルファーになった中で僕が一番努力していない人間だと思います(笑)。

画像: 解説のときに使っている「佐藤メモ」。選手の技術やパーソナリティまで細部にわたって記載されている。

解説のときに使っている「佐藤メモ」。選手の技術やパーソナリティまで細部にわたって記載されている。

高校3年生のときに、たまたま日本ジュニアでベストスコアが出て(9位)、そのご褒美で世界ジュニアに出られることになりました。当時はマル(丸山茂樹)1人だけが別世界にいて、あとの選手たちは「その他大勢」。僕は「その他大勢」の中でも、さらに下のほうに埋もれていた存在でした。だから世界ジュニアで渡米することになっても、周囲の反応は「丸山はわかるけど、もう1人は誰?」って感じでしたね(笑)。

世界ジュニアで10日間もマルと一緒でした。もう何から何まで抜群に上手くて、僕はすべて彼の真似をしていました。プレーだけじゃなく、パターもセルフバッグも同じものを買って、同年齢の仲間というより、手本みたいな存在でした。

帰国後、大学受験に失敗して、 浪人して1年間勉強漬けになるのが嫌で、どうしようかと。将来は父のようなサラリーマンになるのかなと思っていましたし、プロを目指して研修生になる選択肢もなく。そんなとき、世界ジュニアでお世話になった連盟の人からアメリカ留学のお話をいただきました。英語が話せるようになれば、いい就職口が見つかりそうだし、軽い気持ちで留学を決めたんです。大学のパンフレットを見ると、「陸軍士官学校」とあって、写真にはずいぶんと坊主頭の学生が多いな、くらいの気持ちでニューメキシコ州へ向かいました。

そんな僕の認識が甘かった(苦笑)。着いた翌日、いきなりバリカンで青刈りに。それが「ラットウィーク」の始まりでした。新入生は「ラット(ネズミ)」と呼ばれるんです。敬礼の仕方、行進の仕方、靴の磨き方、ベッドメイク、シャツの畳み方は一辺の長さまで決まっているのを、すべて覚えさせられました。ホームシックになっている暇さえない。そのあとネバダ州立大へ編入できたんですけど、すっかり軍式英語が身に付いてしまっていて(笑)。年上の学生と話すとき、語尾に「サー」を付けなくて済むのが不思議なくらいでした。

画像: 「陸軍士官学校」へ留学していた頃の制服には、バッチがびっしりついている

「陸軍士官学校」へ留学していた頃の制服には、バッチがびっしりついている

大学の途中で日本のプロテストを受けたのは、ある科目で「F(落第)」を貰って、このままだと卒業できそうにないなと。プロになりたいとも、なれるとも思っていなかったのですが、結果的に一発合格できました。ゴルフで飯を食うなんてことができるのはマルみたいな人だけだろうと。まさか自分なんかが受かるとは思っていませんでした。アメリカの荷物もそのままで、その後結婚することになるまで1学年下の妻に頼み、船便で送ってもらいました。

スウィングやボールは目に見えても、心の中は目に見えない。1997年のJCBクラシック仙台でツアー初優勝。2000年にはメジャーの日本プロを含む年間4勝を挙げた。賞金王争いをし(3位)、平均ストロークでは堂々の1位になった。ところが、心の中で、「優勝よりも、できれば2位がいい」、そう思っていた。後に欧州ツアーに挑戦するも、その理由は他者には到底理解し得ないものだった。

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最終的にツアー通算9勝という成績を残した佐藤信人。彼がどのような道を経て解説者の道へすすんだのか。気になる続きは「Myゴルフダイジェスト」に掲載中!

TEXT/Jo Hirayama
PHOTO/Takanori Miki

※月刊ゴルフダイジェスト2024年12月号「HUMAN DOCUMENT ターニングポイント 佐藤信人」より一部抜粋

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