新帝王といわれ、一時代を築いたトム・ワトソンに関するこのレポートは2010年に執筆した。この年の前年(2009年)に、59歳のトム・ワトソンは6度目の全英オープン優勝を目指し、プレーオフを戦った。結果的には敗れはしたものの、世界中から賞賛の声が止まなかった年である。その当時の、つまり60歳のワトソンの全体像に迫った。いま読んで懐かしいと思われる人が一人でもいてくれれば幸いである。※『書斎のゴルフ』に掲載された全10回の記事を筆者(特別編集委員・古川正則)本人が加筆修正した。
画像: 2016年マスターズにて、ファンサービスに応えるトム・ワトソン(撮影/姉崎正)

2016年マスターズにて、ファンサービスに応えるトム・ワトソン(撮影/姉崎正)

「マイ・ベービー。うちの子と同じ泣き声だ。おじさんもこのパットをやめて早く家へ帰りたくなったよ」

前述のエピソードとは逆のシーンを筆者が見たのは、1983年、全英オープンが行われたバークデール最終日の15番ホールでのことだ。

リーディングボードにはワトソンら4人が首位に並び、その15番でワトソンは3.5mにつけバーディパットのチャンス。シーンと静まりかえる中、ワトソンがアドレスに入ったその瞬間、2~3歳くらいの男の子が、沈黙の張り詰めた緊張感が怖くなったのか、泣き出してしまったのだ。

父親は糾弾されると思って身をすくめる。しかし、ワトソンはニコリとして父子に、タイトルの言葉を投げかけたのである。ほっとした空気と陽気な笑いがギャラリーを包んだのを、筆者は今でもはっきりと覚えている。

ワトソンはそのパットを外したものの、次の16番でバーディをとり逃げ切り、5度目の栄冠を手にした。

ワトソンはそういう男なのである。

「パットでは、カミングバックで生きていたのが、今はカミングバックで死んでいる(笑)」

スウィング編の最後はやはりパットになろう。

タイトルの言葉はワトソンが40歳の頃、深刻なイップスに罹患し、悩んでいたころの口癖だったという。

ワトソンのパット哲学は「距離の長い、短いに関係なく、しっかり打つこと。もう1つはインパクト時にパターヘッドが加速されていること」にある。

強めに打つので、ラインや傾斜は直線に近く狙えるから往時のワトソンのパットはおもしろいように入った。

ワトソンとは50歳近く年が離れていたが、健在だったジーン・サラゼンが「私が見た中ではいちばんのパット巧者だね」といってたのを思い出す。

ワトソンのパットは外すときは1メートルぐらいオーバーするのが常だった。往年はそのオーバーしたパットを10発中10発決めていたのだが、イップスにかかるや、そのオーバーした1メートルどころか、30センチも入らなくなっていった。それを「カミングバックで生きていたのが、今はカミングバックで死んでる」と自嘲したのだ。

その後、試行錯誤してイップスを克服したのだが、09年、ターンベリーでの18番、パターでアプローチして3メートル弱カミングバック、それを外したのはイップスが完全には直りきっていなかったせいなのか?

この病の根は深い。しかし、今年のワトソンについてイップスの記述はない。

われら熟年ゴルファーの希望の星に再度の栄光をと祈るばかりである。

以上、ワトソンの「スウィング論」を縦軸に、横軸にワトソンの人柄を示すエピソードを綴ってきたが、帰結としてはやはりその人のキャラクターがスウィングをつくるという当たり前の結論になってしまう。

一度決めたその道を――。

ショットはアップライトスウィング。アプローチはコックを使った小さな動作できっちり球を捕らえる。そしてパットではどんなイップスに陥っても長尺など見向きもせず、ピン型パターで頑固なまでに克服をめざす。

新帝王と呼ばれたトム・ワトソンの今後に幸あれ。

ゴルフダイジェスト特別編集委員/古川正則

1話目から振り返る!

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