週刊ゴルフダイジェストの連載「PGAツアー HOT LINE」でおなじみの“コーリーさん”。米国出身の彼は、なぜ日本に? そもそもPGAツアーのディレクターとはどんな仕事? 好きなことを仕事にするってどんな感じ? 質問をぶつけてみた。【全2回中1回目】

コーリー・ヨシムラ
PGAツアーのアジア全体のマーケティング&コミュニケーションディレクター。1982年、米国ユタ州ソルトレークシティ生まれ。ゴルフ歴は4歳〜
「今の仕事は楽しいですか? やりがいはありますか?」と尋ねると「毎日感じるんです。ああ、この仕事ができて良かったと。『自分のやりたい仕事を書いて』と言われたら、今やっていることになる。それくらい好きな仕事です」と話すコーリー・ヨシムラ氏。
肩書は、PGAツアーインターナショナルのマーケティング&コミュニケーションディレクター。PGAツアーの魅力を発信し、日本のファンの心をつかんで離さない。
生まれは米国ユタ州のソルトレークシティ。シングルプレーヤーだった父の手ほどきで4歳か5歳の頃にはゴルフクラブを握っていた。

ユタはゴルフ環境が抜群。父と
さまざまなスポーツに取り組んだが、「実は生まれつき心臓が良くなくて。医者にコンタクトスポーツは避けたほうがいいと言われたこともあり、8歳ぐらいからゴルフが中心に。それから高校を卒業するまで毎週のようにゴルフの試合に出ていました」。
ユタのゴルフ環境は抜群で「夏は暑く、冬は寒い所ですが(笑)、日本と違って湿気は少ないですし、雪が積もらなければ回れます。私が子供の頃は9ホールなら5ドルぐらいで回れました。アメリカのコースはジュニアゴルファーに優しい。それはすごくいいことだと思います」。
高校時代からチームの主力として活躍し、地元で名の知られる存在に。しかし「どうしても行きたい大学があって」しばらくゴルフを休むことに。無事、志望のブリガム・ヤング大学(BYU)に入学し、マーケティング広報を専攻したが、大学での学びを生かし現職に一直線……となったわけではない。

競技ゴルフを休んで大学進学の準備。念願かなって「BYU」に入学、その後、日本へ。写真右はニューヨークの広告代理店時代。クリエイティブ職の経験も
「大学に入学して1年後、いったん休学し、末日聖徒イエス・キリスト教会のボランティア宣教師として日本に来たんです。私は日系4世ですが、来日はその時が初めて。実家でも日本語はほとんど使ったことがありませんでした」

ボランティア宣教師として来日
流ちょうで知的な日本語を操る彼の日本語勉強歴はこの時から。
「最初に住んだのは岐阜県の高山。その後は群馬や埼玉など関東のいろんなところに住みましたね」
ホームシックにはならなかったという。理由は「楽しかったので」。アメリカと日本の違いに気付くと、楽しくてたまらない気分になった。
「例えば日本の飲み物の小ささ(笑)。『ウェンディーズ』のシェイクが好物だったんですが、日本のお店でレギュラーサイズを頼んだら、アメリカだとキッズサイズぐらいのカップで出されて『えっ!?』となりました。似たようなことで『面白いな』と感じたのがドリンクのボトル。大きなペットボトルと小さなペットボトルの飲み物が売っていて、小さいほうが割高なんですが、日本人は平気で小さいほうを買う。それは“もったいない”という感覚があるからだと思うんです。大きいほうを買って飲み切れなかったときに捨てるのが申し訳ないという感覚。あれは、日本人ならではというか、すごいなと感じました」
子どもの頃から興味津々だった日本で、約2年、驚きや喜びにあふれた生活を送り、コーリー青年はアメリカに帰国。大学に戻ると、また出会いが。
「今の妻と知り合い、22歳のときに結婚しました。妻は日本人で、日本の看護師の資格を持ち、アメリカには英語を学びに来ていたんです。図書館で出会いました」

虎ノ門のPGA TOUR International JAPANのオフィスで。写真やグッズが所狭しと、しかし、絶妙な配置でディスプレーされている
卒業後は広告代理店に職を得て、夫婦でニューヨーク暮らし。「最初はコピーライターをしていましたが、その後、クリエイティブ部門とクライアントをつなぐマネジメントの仕事もするようになりました」。
“つなぐ仕事”は、今も同じだ。
PHOTO/Akira Kato
※週刊ゴルフダイジェスト12月10日号「私の履歴書 コーリー・ヨシムラ」より一部抜粋