1月に93歳の生涯を閉じた陳清波氏のお別れの会が執り行われ、122名の関係者、約100名の一般の人が献花した。
画像: 希代のショットメーカー陳清波氏

希代のショットメーカー陳清波氏

弔辞を読んだのは6名。福岡ソフトバンクホークスの王貞治会長は弔辞を書いた紙を読まず、語りかけた。

「わたしが巨人に入った頃から追いかけた台湾出身の先輩、陸上五輪の楊伝広、囲碁・林海峰。そして陳さんもその1人でした。戦う場所こそ違っても、陳さんの世界的活躍は自身の刺激になりました。10年ほど前、一緒にラウンドしたことがあるのですが、80代半ばでも同じ球を揃えられるプロの凄さを感じました」と称えた。

女子プロ界のレジェンド、樋口久子は「男女プロたちの台湾と日本の架け橋になっていただきました。陳さんがいらしたから台湾のプレーヤーが日本に続々来日したのですから。人間的にも素晴らしく、どなたにも公平に接してくれて、上から目線というものが全くない人でした」と悼む。

また日本女子プロゴルフ協会の小林浩美会長は、陳氏の代名詞ともいえるダウンブロー打法を直接教わったという。

「ダウンブローでの下半身(ひざ)の使い方を学びたくて、つてを頼って門を叩いたら快諾してくださった」と。米ツアーで勝利した技術力の、ある部分をつくってくれたというのだ。

陳氏は1931年、日本統治時代の台湾北部淡水出身。淡水GCで働き、22歳でプロ入り。1954年、先輩である陳清水を頼りに来日し川奈ホテルGCで修業。1959年には東京GC所属。部屋には暖房もなく、練習して体を温めるしかなく、これがダウンブロー打法を磨く因よすがとなったという。

ダウンブローとはボールの赤道より下にヘッドを入れ、ボールの左側のターフを取っていく打法。日本オープンに初勝利したのを皮切りに国内ツアーで12勝を挙げた。マスターズには1963年から6年連続で出場し、すべて予選通過。W杯には台湾代表として11 回出場。

1978年、帰化して清水泰行に。お別れの会にはひ孫など親族30名が参列。功成り名を遂げて天寿を全うした。

※週刊ゴルフダイジェスト2025年4月8日号「バック9」より

若いころの陳清波のドライバーショット連続写真

ダウンブローの名手、陳清波

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