
「日本一のクラブ職人」三浦勝弘氏
1942年、兵庫県姫路市で生を受けた。中学卒業後、クラブ製造会社に就職。しかし、その後は幾度も職を変え、挫折するとゴルフ業界に戻る、ということを繰り返していたという。23歳の時に独立し、本格的にクラブ製造を始めて1965年初期にピン型のパターを作ったところ、これが大当たりした。
しかし、紆余曲折の人生はこれで終わりではなかった。時代は日本列島改造ブーム。氏は儲けた金で土木業を始めた。ところがブームはすぐ陰り、後には莫大な借金だけが残った。この清算に6年を要したという。昼間は再びクラブヘッドを作り、夜は別の仕事の掛け持ちで借金を返していった。この失敗が氏をして成功の後半生を形成していく源となった。
「おれにはクラブ作りしかない!」と1977年、兵庫県神崎郡市川町に「三浦技研」を創業。主に軟鉄鍛造のアイアンヘッドの製造を手がける。鍛造から一貫製造し、金型で形を作り込むのも三浦アイアンの特徴。鉄の組織が詰まり、鉄の密度が他とは違うともいわれる。
メーカーのヘッドを製造する一方でオーダーメイドの製造を始め、この頃から目利きのプロたちの信頼を獲得するようになる。プロたちが口を揃えて言うには「三浦さんに頼むと、我々の感覚を理解してくれるので、イメージ通りのクラブが出来上がる」と。
「神の手」の誕生だ。しかし、氏は表には一切出なかった。「縁の下の力持ち」であり、「30年以上、クラブを作ってきたが、まだクラブのことがよく解らない」というのがその理由だった。本人はマスコミにも頑として登場しなかったが、氏が重い口を開いてくれた数少ないライターの一人に近藤廣氏がいる。以来長年取材し続けてきての証言──。
「ゴルフを始めたのは50歳の時からだが、インパクトの音を聞けば、その人がどんなクラブを欲しているのか完璧に解ると言ってました」「元々研磨の達人。何十個ものウェッジのヘッドを研磨する時、最初の1個を削って重量を測ると、2個目からは測らなくても全く同じ重量になっていました。三浦さんの手は精密な秤でした」
その名人ぶりは海外にも及んで、三浦から世界のミウラへと躍動して久しい。そのDNAは2人の子息とチームに引き継がれている。寡黙で一徹、“ゴッドハンド”の伝説を遺して、人生の幕を下ろした。
合掌(特別編集委員 古川正則)
※週刊ゴルフダイジェスト2025年6月10日号「バック9」より