障害がある方々の基本動作能力の回復や維持・向上をはかり、自立した日常生活が送れるよう、運動の指導や物理療法などを行っている彼らは、日々「リハビリテーションとは何か」と問い続けています。そんななかで「スポーツの力」とは何か、改めて考えてくれました。
私が理学療法士として急性期病院で勤務していたころ、ある男性と出会った。彼は、かつて地域のクラブチームでサッカーをしていたという。その彼が、進行性の神経難病により、日々少しずつ身体の自由を失い、やがてはベッドから起き上がることも、言葉を発することも難しくなっていった。言葉の代わりに使っていたのは、視線入力による意思伝達装置だった。

今回、寄稿してくれた成岡正基さん。1992年生まれ、静岡県出身。千葉県内のクリニック・総合病院、東京都内の訪問看護ステーション勤務を経て、現在は理学療法士養成校の教員
ある日、彼はその装置を通じて、ゆっくりと、次のように綴った。
「もう、勝ち負けはどうでもいい。ただ、誰かと一緒に笑っていたいだけ」
彼のその言葉に触れたとき、私はリハビリテーションとは何か、その本質を深く問い直すことになった。勝ち負けという明確な目的が存在するスポーツにおいて、なぜ彼は「笑いたい」と願ったのか。その言葉からは、競技の世界から離れた今もなお、誰かとつながり続けたいと願う彼の確かな意思を感じた。それは、人が人として生きていくうえでの、最も根源的で、人間らしい願いだったのかもしれない。
リハビリテーションの現場では、「できること」を少しでも増やす、あるいは保ち続けることが目的とされる。立ち上がる、歩く、箸を使う、ボタンを留める……。たしかにそれらは尊い成果である。しかし、「生きる」とは、そうした動作の可否だけで語れるものなのだろうか。

理学療法士の仕事に真摯に向き合う成岡さん。患者さんの「できること」を増やしていく日々を積み重ね、たどりついたのは「ともに在ること」の希望なのですね。素敵です
そもそも「リハビリテーション」という言葉は、ラテン語の re + habilis、「再び適した状態へ」に由来する。では、その「適した」とは、誰にとってのものなのか。医学的な基準か、社会的な役割か、あるいは今この瞬間を生きている本人の、静かで切実な願いか。あの一文に触れて以来、私は、もう一つの問いに立ち止まるようになった。
彼の願いは、サッカーを「観る」ことだった。フィールドに立つことは叶わなくても、画面越しに試合を見つめ、歓声に反応し、笑う。そこには、競技者としての自分を超えて、なおスポーツの世界で生きている彼の姿があった。静かに祈るような眼差しには、「ただ、誰かと一緒に笑っていたいだけ」という言葉の重みがにじみ出ていたように思う。

筑波大学の社会人大学院でも「リハビリテーション」を学んだ成岡さん。当時は「リハビリテーションとは何か」の問いに「どれほどの逆境にあっても、希望を失わず、可能性を模索する力」と答えていました。想いも日々進化します
スポーツは、勝敗や記録を競うものであると同時に、誰かと何かを共有する時間でもある。その瞬間、人は再び他者とつながり、自らの存在を確かめる。そこには機能の有無では測ることができない、「ともに在ること」の価値がある。
私はその姿に、リハビリテーションの本質を見た。人は、「できる」「できない」という尺度だけで語れる存在ではない。そして、リハビリテーションとは過去の状態に近づくことのみを目的とするものではなく、今ある人生に手を添え、その人の輪郭を、もう一度描き直していくものであると思う。
その道の先には、誰かと笑い合える未来が必ずあると私は信じている。
PHOTO/本人提供