
年配のゴルファー(失礼!?)ならご存じローラ・ボー。その息子のエリック・コールは今年も日本に来日
日本にゴルフブームが巻き起こった頃、愛くるしい笑顔で国内メーカーのコマーシャルにも登場し絶大な人気を誇ったローラ・ボー。それがコールの母親だ。
父も77年のビューイックオープンでPGAツアー1勝を挙げたボビー・コール。コールは父の姓を受け継いだ。
7児(!)の母であるボーは彼らを連れてツアーを転戦。「90年代は僕ら7人兄弟をバン(車)に詰め込み夏の間LPGAのトーナメントを回っていました。だからコースに設けられた託児所は我々兄弟が占領状態だったんです」とコールは振り返る。
兄弟は皆ゴルフをしたが「僕が一番熱心でした。子供の頃はよく母と一緒にゴルフをしていました。飛距離がほぼ同じだったから良い競争相手でした」。
ジュニア時代は母の再婚相手がベイヒルGC(アーノルド・パーマー招待の会場)の会員だったためクラブメンバーに迎えられ、パーマーの孫サム・サウンダースと親友になった。
プロになりたくて仕方なかったが一応大学だけには入ろうとノバ・サウスイースタン大学に進学。だが2年のとき「ひどく無気力になり身体中が痛み体重も大幅に減少したのです」。
医師の診断は1型糖尿病とアジソン病。数カ月で体調は回復したが大学には戻らなかった。
「避けられない運命を先延ばしにする理由なんてないからです」
その後はPGAツアーでプレーする日を夢見ながらエントリーフィーが2万から3万円、優勝賞金が15万円程度のミニツアーを転戦し56回の優勝を果たした。
体調は回復しても日常的にインスリンポンプと血糖値モニターを装着は欠かせない。いまでもキャディバッグに血糖値が下がったときに必要なアイテムを入れ血糖値が安定しているときのため無糖のプロテインバーも常備。アジソン病の薬も毎日必ずのまなくてはならない。
Qスクールに何度も挑戦したが挫折。ようやくPGAツアーに出られる成績を残したときには背骨の疲労骨折で選手声明の危機に陥った。
そこで地元(フロリダ、ジュピター)でジュニアたちにレッスンを始めた。プロに助けてもらった自らの幼少期を思い返し「ゴルフに夢中な子供たちを助けることに幸せを感じました」。その経験があったから再び競技を始めたとき「プレッシャーが軽減された」という。
20年から22年はコーンフェリーツアー(下部ツアー)の出場権を獲得し、22年にトップ25入りし遂に念願のPGAツアー昇格を果たした。
しかしルーキーイヤーの序盤コロナにかかり再び逆境に立たされた。4試合連続予選落を喫したが「自分のプレーを信じていました」。多くの選手がツアーに出て自分のプレースタイルを変え自滅する姿を見てきたコール。
「だから自分のゴルフを貫こうと決めたのです」。その結果23年の2月ホンダ・クラシックでプレーオフに進出。あと一歩で優勝というところまでたどり着いた。
そしてその年遅れてきたルーキーはツアー最多の37試合に出場。合間にミニツアーに参戦するなど鉄人ぶりを発揮し新人賞に輝いた。
今シーズンはトップ3回に止まりポイントランク80位でプレーオフ進出を逃したが、フェデックスカップフォールで鉄人ぶりを見せつけるつもりだ。
「いつか優勝の喜びをツアーで勝ったことのある父と分かち合いたいですね」
逆境を乗り越えた不屈の37歳はいまもひたすら勝利を追い求めている。
なお、初日はインコースからスタートしたが、11番でボギーとするも12番ですかさずバウンスバックのバーディ。調子をあげるかと思った13番でトリプルボギー、その後も14、15、17番でボギーとイマイチ。仕切り直したアウトコースで4つのバーディを奪い、トータル2オーバーの42位タイでフィニッシュ。トップとは6打差だが、不屈の闘志の追い上げに期待したい。