父考案のスパルタトレーニングで下半身強化
17歳の笹生はまだプロになる前、母の故郷フィリピンで父・正和さんと暮らしていた。理由はゴルフ環境の良さと英語の勉強ができるから。家から10分以内の距離にゴルフ場があり、フィリピンはタガログ語と英語が公用語のため、日本より英語力がアップできる。優勝インタビューで流暢な英語を話していた笹生の語学力はフィリピンで培ったものだった。
笹生は、全米女子オープンでもパー4を3Wで軽々ワンオンさせるなど、米ツアーでは飛ばし屋としても有名。17歳当時からプロを圧倒する飛距離を誇っていた。
18年のフジサンケイレディスに出場した笹生は、ドライビングディスタンス282.5Yでプロの葭葉ルミに次ぐ2位を記録し、日本でも一躍その飛距離が注目された。
それから2カ月後、笹生の飛距離の原点を追い求めて、フィリピンの実家を訪れた。
ゴルフ漬けの生活で持ち前のセンスや体力があるからと思い気や、笹生はけっして飛ぶほうではなかったという。小学校のころのドライバーの飛距離は70Y程度だった。
「本気でプロを目指したいなら、オレも本気になるぞ」
と父と娘は飛距離アップトレーニングを始める。
それは、昭和のスポコン漫画「巨人の星」ばりの熱血そのものだった。
試合や遠征以外毎朝欠かさず朝5時起きでトレーニングスタート。
「私は『巨人の星』の星一徹みたい」と笑う父は、娘の足首に容赦なく鉛を巻き付けた。最初は片足250グラムで、2キロを超えるまでになった。当時笹生は、
「私は空手、柔道、剣道、どれも黒帯ですが、武道もスポーツも下半身が基本だと思っているので……」
と話したように、両足に鉛を巻いて30分のランニングに100mの坂道ダッシュ。ゴルフ場でも鉛をつけてプレーすることもあった。
父が考えるトレーニングや練習法に半信半疑だった娘。
「やってることが正しいかどうか最初わかりませんでした。でも今(17歳当時)の飛距離を考えると正しかったんでしょう」と笑って話していた。
スウィングを見てきた父は「飛距離は思い切り振ったときに、インパクトでエネルギーをいかに集約できるかです。いいスウィング、いいバランス、真っすぐボールを飛ばすために鍛えぬいた下半身が、優花の飛距離の源だと思いますよ」と話した。
300Yを目指していた父娘は全米女子オープンを2度も制し、父考案の下半身トレーニング法が正しかったことを改めて証明した。
これが笹生の飛距離の原点だった。