初優勝したときも「ゴルフを知らなかった」
新垣比菜というゴルファーの成績を見てそのキャリアを2つに分けるとしたら、勢いよく初優勝まで突き進んでいった前半と、そこからの苦しんだ後半ということになるだろう。
初勝利までの新垣の軌跡は実に華々しい。12歳のとき、地元沖縄で開催されたダイキンオーキッドレディスに当時史上最年少で出場。その後同じ黄金世代の畑岡奈紗や勝みなみらとナショナルチームに選出され、プロテストは1発合格。そして翌年の4月にはサイバーエージェントレディスで初優勝を遂げる。これは初日から1位をキープする完全優勝だった。
実力はもちろん容姿端麗なビジュアルも相まって、メディアはこの華々しいストーリーを黄金世代のトップランカーとして騒ぎ立てた。その後も9月のマンシングウェアレディース、10月のスタンレーレディスで2位に入り、2勝目は時間の問題かと思われていた。
強いられていたゴルフからシード権を喪失
だが、当時のことを本人に振り返ってもらうと、世の中が抱く印象とは大きく異なる。「今思えば、何もわかってない中で勝っちゃったという感じです。“ゴルフを知らなかった”と思います。ただ、かなりの量の練習を“やらされていた”ので実戦ではどうにかなっていたという感じです」(新垣)
天賦の才に加えて、コースでの応用力は練習量でカバーしていた。しかし当時のことを振り返る新垣の言葉にはいわゆる「あの頃の努力が下地になり今がある」という誇るべき経験のようなニュアンスはなかった。少なくとも筆者はそう感じた。
新垣へインタビューしていると、誠実で自分の意思をしっかり持った選手なんだという印象を受ける。だからこそ、誰かに強いられたり自分の思い通りにゴルフと向き合えないことは、彼女にとって強いストレスだったはずだ。
当時、彼女の心の内を知るすべはない。だが、翌年は開幕戦のダイキンオーキッドレディスこそ2位タイに入ったものの後半戦はトップ10入りがゼロに。そして、コロナ禍で統合された2020-21年シーズンにはシード権を喪失。同世代の選手の名前が毎週のように報じられる中、22年シーズンの前半は出ればほぼ予選落ちというどん底の状態が続いた。
そんなシーズンの真っ只中、新垣は「何かを変えなきゃ」という想いを持ち青木翔コーチの元を訪れる。
自信を持たせて関係性を築いていった
「なんで僕? って思いました。ツアー会場で会えばあいさつくらいはしていましたが、彼女とちゃんと話したこともなかったし」という青木コーチ。
当時の教え子、渋野日向子と新垣は同世代だったものの青木とは接点もない。ただ、練習場でちらりと見る彼女の印象は「きつそうだな……」という感じだったという。「ショットはバラバラ、迷っていそうな感じもあったけど試行錯誤するしかないみたいだったのをうっすら覚えています」(青木コーチ)
関係者を通じて青木コーチに「一度見てほしい」と連絡があり、運営するスクールのある樫山ゴルフランドで“初対面”をしたのは、その年、新垣が17回目の予選落ちをした翌週の月曜日だった。
「結果が出てないと言っても“あの新垣比菜”だし(笑)。じっくり見たこともなかったからいつもの通り『まずは打ってみて』という感じで始めました」という青木。その日は教えるというより何に悩んでいて、どんな球を打ちたいのか、自分がどうなりたいのか会話を重ねた。「選手と信頼関係を築かないと言葉が届かない。だから理解するためにまずは話を聞く」という青木のスタイルでコミュニケーションは進んだ。
その場で「(コーチを)お願いします」と言った新垣に、「一度持ち帰って、周りに人とも相談をして決めてごらん」と熟考をうながしたのも青木らしい。できる限り選手に主導権を持たせて自立をさせるスタイルに「やっぱりこの人にしよう」と新垣は青木に決めた。
見始めた当初はチーピンにドロップしたような球筋ばかりだったという新垣。コーチとして大きく変えたい部分はあったけれど、試合に出続けているプロをシーズン中に根本治療することはできなかった。だから新垣が打ちたいと言った「ドローに必要となる基礎的な部分」を伝え、まずテークバックのイメージだけを変えた。最優先は彼女に自信を取り戻してもらうこと。そのため、ポイントを絞ってすぐにイメージが変わりそうな部分を伝えたのだ。
青木いわく「自信がなさそうで、ゴルフもきつそう、というか好きじゃなかったと思う」という状態の彼女にとって、青木からのシンプルなワンメッセージのアドバイスは、今後取り組むべき方向性が見え、自分の意思を尊重してサポートしてくれるコーチの力は大きかった。
その年の9月、日本女子オープンではこのシーズン初めて30位以内に入り、翌々週の富士通レディースでは3位に入り、およそ1年半ぶりとなるトップ10フィニッシュ。11月のステップ・アップ・ツアー最終戦では優勝を遂げた。成績は徐々に上向いてきたものの、スウィングのメカニクスは突貫工事の状態。だから2人の関係性も信頼し合う選手とコーチというところまではいっていなかった。
「意志は強いんだけどガツガツ来るタイプじゃない。どうなりたいかは本人にゆだねたかったので無理に距離を縮めるようなことをもしませんでした」という青木は時間をかけて新垣を変えていった。
翌2023年シーズン、地元開催のダイキンオーキッドレディスで予選落ちとつまずいたが、この時も「結果を出したい試合かもしれないけれど、まずは今やるべきことをやっていこう」とフォロー。このシーズン、トップ10入りこそ1回だったものの予選落ちの回数は激減し2人の距離も縮まっていった。
技術よりも楽しさを教えるコーチ
「特別何を変えたわけじゃないんです。前週で調子が上向いたという感じもなくて、いきなり結果が出るのはこれまでにない経験。本当に不思議な1週間でした」と新垣本人が語るように、6年ぶりに優勝したヨネックスレディスを除いて今季トップ10フィニッシュは実はない。
改めて勝因を聞くと「ショットの大きなミスがなかったことと、パットのタッチが合ったことが大きい」と自己分析する。いずれも青木コーチとともに時間をかけて取り組んできたことだ。ショットは手先の力だけで球をつかまえるのをやめ、体の回転を生かし安定したドローが打てるように。そしてパットは振り幅を小さくするためリズムを速くし、タッチのブレを少なくした。これらがかみ合い14アンダーというスコアを作った。
この2つも青木コーチがやるように指示したのではなく、彼女が自らの意思で選んだものだ。「教えたことをただやるのではなく、比菜ちゃんが選んだ方法とやり方で勝てたことに意味がある」(青木)
結果として新垣が青木コーチのもとを訪れたことで、ガラリと世界が変わっていったわけだが、そもそもなぜ青木に依頼してみようと思ったのか。
「強制するような人とは合わないって思ってました。練習の中身も量も強いられるは辛い。自分の性格には合いません。青木コーチは最初からそういうタイプではなかったし、会場で練習していた(渋野)日向子ちゃんがいっつも楽しそうにしてたので、あの雰囲気でゴルフをしたいなって思ったんです」(新垣)
初勝利と引き換えに、彼女は大きな何かを喪失したのかもしれない。青木コーチが新垣にもたらしているのは、技術ではなくその失われた何かなのだろう。
「比菜ちゃんはきっとここ数年で一番練習しています。それでもコーチとしてはまだまだ足りないと思う。でも絶対に強制して練習量を増やすようなことはしません。それで勝てたとしても多分、彼女は幸せじゃないから」(青木)
これは、青木コーチや兄でキャディの夢蔵さんをはじめとした「チーム新垣」の方針だという。試合の合間の練習日、本人を交えたチームミーティングからは時おり笑い声が聞こえてきていた。この雰囲気が、彼女をさらに成長させていくはずだ。
PHOTO/アラキシン
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本日発売の2024年7月9日号の「週刊ゴルフダイジェスト」では「新垣比菜は青木翔コーチと何をやってきた? 引っかけない“本物”ドローを手に入れる」と題し、新垣と青木コーチの取り組みを紹介! そちらのチェックもお願いします!