プロゴルファーであり、数々の作品を世に出した作家でもある坂田信弘が2024年7月22日に鬼籍に入った。処女作に当たる1984年の自戦記は掲載済みだが、代表作といえば『週刊ゴルフダイジェスト』に寄せた「マスターズ観戦記」だろう。坂田が初めてオーガスタに降り立った1985年の観戦記を練習日の火曜から最終日の日曜まで6回に分けて紹介する。氏の独断と偏見、そして、ユニークな視点を味わっていただきたい。改めて哀悼の意を表します。<3回/全6回>

夕方クラブハウスにて南アの黒豹、ゲーリー・プレーヤーと話した。非常に優しい目をしている。私は、京都妙心寺にて同じような目をした禅僧に出会ったことがある。伏目がちな悲し気な目であった。

「あなたが勝ったサントリーオープンの18番でのバンカーショットを私は今でもはっきりと覚えております」

「ありがとう、サカタ。私は日本へ行きたい。でも、今は不可能であろう。私は行きたいのだが」そして、彼は左胸に手を当てて「心が痛む」といった。プレーヤーは今日、71のスコアである。

私は、今日一日、2番ロングホールグリーン裏にいすわった。プレーヤーは、第2打を右手前バンカーに入れた。そこより50センチ寄せてなんなくバーディ。相変わらずいいバンカーショットをしている。ドライバー距離も落ちておらぬ。多少、身体が小さくなったように思うが、まわりが大きい連中ばかりで小ささがよけい目立つのかもしれぬ。

オーガスタの中で、外国招待選手の一番人気はプレーヤーである。次にバレステロス、3番手に青木がくる。そして、ノーマンとなる。

プレーヤーはゴルフを求道的精神で追い続けている。南部の人間はそれを高く評価する。合理性より人間臭さに南部の人間は郷愁を抱いている。ギャラリーの一人がいっていた。「中国人、ユダヤ人は理を求めず、時には理不尽なことをする。日本人は人をだます商売はせぬ。いいものを造り、売っている。だから、日本人はグッドガイである」と。

画像: 外国招待選手で人気No.1はプレーヤー、No.2がバレステロス(写真は1985年マスターズでのゲーリー・プレーヤー)

外国招待選手で人気No.1はプレーヤー、No.2がバレステロス(写真は1985年マスターズでのゲーリー・プレーヤー)

アメリカ人は日本経済のスピードに恐れを抱いている。しかし日本人に恐れを抱いているわけではない。

伊達男、P・スチュアートがやって来た。赤いハンチングをまぶかにかぶり、同色のニッカボッカ、白いシャツに白ソックス、白に赤ラインの入ったスパイク、もちろん手袋は白。金髪の男前にこれでゴルフが一流ときているからもてぬわけがない。女性からの熱い視線を無視しさっそうと歩いてゆくのがまた憎い。

ニクラスが来た。グリーン手前30ヤード付近に来た時、拍手がわき出した。ニクラス以上の拍手を受ける者が一人いる。A・パーマーである。隣のギャラリーがいった。

「キング・カムズ・ネクスト」

そしてパーマーがやって来た。右肩を心もち下げて歩いてくる。パーマーが今後マスターズに勝つことはあるまい。オッズ(掛け率)は20対1である。最高はトム・ワトソンの、9対2。

パーマーも闘うには歳をとりすぎた。パターがひどい。パーマーのパターにカップをなめるようなスリルが全くない。

しかし、パーマーはギャラリーの中では常に勝利者である。ゴルファーに限りない夢を抱かせて今もなお、パーマーはアメリカの夢をつくっている。パーマーおじさんは明日でいなくなる。今日82。

中島が、ワトソンとやって来た。常幸は今日一日苦しんでいる。ショットに安定感がない。右、左にぶれている。

私は常幸と親しい。彼を見てジーンときた。今日、77。

青木がトレビノとやって来た。オーガスタで見る青木は、日本で見る青木よりも輝いている。陽気なトレビノは臆しがち。これがマスターズであろう。トレビノ70、青木72。

夕方、練習場を歩いていた時T・ワイスコフに会った。

「実によく練習するんですね」

「練習はプロゴルファーにとって義務なのです。練習できなくなったらその時静かに闘いの場から去ってゆけばよいのです。私は今、テレビ解説していますよ」柔和な目であった。

マスターズは闘える者の祭典である。若手はよく練習すると思っていた。しかし、オーガスタに出てくるプロは、彼ら以上の練習をしている。

※本文中の表現は執筆年代、執筆された状況、および著者を尊重し、当時のまま掲載しています。
※1985年5月1日号 週刊ゴルフダイジェスト「坂田信弘のマスターズゲリラ日記」より

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