ゴルフというゲームは「神が造り給うたリンクス」で始められたとされる。週刊ゴルフダイジェスト1月28日号では何年たっても色あせないゴルフ場の設計者たちの歴史を紹介している。「みんなのゴルフダイジェスト」では2回に分けてご紹介。【2回中2回目】
 
▶︎まずは前編を読む

【アレキサンダー”アリスター”マッケンジー(1870〜1934)】
戦略性に優れ最も高い評価を得ている設計家

ケンブリッジ大学で医学を学び、軍医として第2次ボーア戦争(1899〜1902年)に従軍。この時の経験からコース設計にカモフラージュを取り入れたとされるのがアリスター・マッケンジー。コース設計家となったのは退役後で50歳を過ぎていた。20年に「ゴルフ設計論」を著したがコース設計の依頼はどこからも来なかった。

画像: サイプレスポイントクラブは海沿いのホールと、ナチュナルバンカーが連続する内陸部のホールとで構成されている

サイプレスポイントクラブは海沿いのホールと、ナチュナルバンカーが連続する内陸部のホールとで構成されている

チャールズ・アリソンとともにハリー・コルトのもとで働いていたがコルトとは意見が合わず独立。26年、南半球に渡り、オーストラリアでロイヤルメルボルンGC西コースを手掛けた頃から仕事が殺到し、28年にはアメリカのサイプレスポイントクラブ、29年にはパサティエンポGCで高評価を得た。

画像: 開場後のコースは荒々しくリンクスを思わせる。モントレー半島の開発をしたマリオン・ホリンズ(上)

開場後のコースは荒々しくリンクスを思わせる。モントレー半島の開発をしたマリオン・ホリンズ(上)

29年ペブルビーチGLでの全米アマに出場していたボビー・ジョーンズは1回戦で敗退。時間を持て余し、友人の女子アマチュア、マリオン・ホリンズに誘われサイプレスポイントクラブをプレーすることに。

画像: マッケンジーのコース論が書かれた”The MacKenzieReader”は2020年に刊行された

マッケンジーのコース論が書かれた”The MacKenzieReader”は2020年に刊行された 

実は、ホリンズはニューヨークの証券会社社長令嬢として育ち、父から西海岸の不動産事業を任されていたサイプレスポイントクラブの開発者だった。ジョーンズはサイプレスポイントクラブの卓越したルーティングと高い戦略性にいたく感服し、競技引退後に「理想とするコースを造る」予定だったことからマッケンジーに設計を依頼。それがオーガスタナショナルGCだ。

画像: オーガスタナショナルGCの16番ホールはハリー・コルトが設計した英国のストークポージスGCからヒントを得ている。開場時は7番ホールでグリーン前を横切るクリークがあった

オーガスタナショナルGCの16番ホールはハリー・コルトが設計した英国のストークポージスGCからヒントを得ている。開場時は7番ホールでグリーン前を横切るクリークがあった

コース設計の主な基本理念は「自然を保存し人工的なものは最小限に」「ブラインドホールをなくす」「すべてのホールに特徴がある」「グリーン周りでは様々な技術を要求する」「プレーヤーに挑戦意欲を喚起させる」「すべてが美しく」「偉大なコースは多くのプレーヤーが楽しめる」「技術と同様に戦略性も要求する」などだった。

画像: ロイヤルメルボルンGC西コースはサンドベルト地帯にありインランドリンクスでオーストラリアNo.1のコースだ

ロイヤルメルボルンGC西コースはサンドベルト地帯にありインランドリンクスでオーストラリアNo.1のコースだ

【ロバート・エドワード・ハンター(1886〜1971)】
自然との対峙だから同じようなホールを造ってはいけない

シカゴで生まれたハンターはイェール大学で学びゴルフ部員としても活躍をした。1904年のセントルイスオリンピックに出場している。ゴルフはパリ大会に続いて行われたが、日露戦争勃発による国際情勢の緊迫化などで欧州からの参加が激減。

画像: ペブルビーチGLの改造をH・チャンドラー・イーガンと共同で行っている

ペブルビーチGLの改造をH・チャンドラー・イーガンと共同で行っている

個人戦はカナダ、アメリカの2カ国から77名、団体戦はアメリカの3チームのみ。そして勝負に時間がかかり過ぎることからか、2016年のリオ五輪までゴルフ競技は100年以上行われなくなる。全米アマチュアに7回出場した実力者であり、10年に全米大学体育協会( NCAA )の試合で優勝を果たし、イェール大学を卒業後にフランスに留学、建築学を学んでいる。22年にシカゴからカリフォルニアに移住した。

コースの設計は共同でサイプレスポイントクラブ、ザ・メドウ、ザ・バリーで、改造ではモントレーペニンシュラCC、そしてH・チャンドラー・イーガンと共同でペブルビーチGLも手掛けている。28年にイーガンとアリスター・マッケンジーはゴルフコースを設計するマッケンジー&イーガンゴルフコースアーキテクチャーを共同経営していた。

画像: マッケンジーとの共作だがサイプレスポイントクラブを手掛けた(上)名著“THE LINKS”は読むべき一冊

マッケンジーとの共作だがサイプレスポイントクラブを手掛けた(上)名著“THE LINKS”は読むべき一冊

彼の最大の功績は、スコットランドなどのリンクスを視察した「ザ・リンクス」を著したことだろう。

【ヒュー・アービン・ウィルソン(1879〜1925】
グリーンに急勾配を持たせてバンカーの視認性を重視

1902年プリンストン大学を卒業し保険業を生業とした。メリオンGCの前身といえるメリオンクリケットクラブの会員になり、メリオンGC設立のため7カ月にわたり英国、スコットランドのクラシックコースを視察し、興味を抱いたコースの資料からホールの研究をしていった。

画像: コース内にはクリークが流れているが、全体的に見ればインランドリンクスの趣がある

コース内にはクリークが流れているが、全体的に見ればインランドリンクスの趣がある

11年メリオンGC東コース、13年メリオンGC西コースを手掛け、18年にはパインバレーGCの設計にも参加している。工事監督だったジョー・バレンタインにバンカーを配置する予定の場所に白のベッドシーツを広げさせ、ウィルソンはティーイングエリアからの視認性を重視し、位置を確認していったという。

画像: 1930年代メリオンGCの全景

1930年代メリオンGCの全景

チャールズ・B・マクドナルド、H・J・ウィングハムからも学び、A・W・ティリングハーストなどとも交流があった。なかでもチェリーヒルCC(1923)、シネコックヒルズGC(1931)などの名コースを設計・改修したウィリアム・フリンはウィルソンの助手としてメリオンGC建設に参加している。

画像: メリオンGCは1934、50、71、81、2013年に全米オープンが開催されたが13年の大会では全長が6996ヤードと全米オープンの会場としては短すぎて好スコアが続出するだろうと非難されたが、優勝したJ・ローズのスコアは1オーバーだった

メリオンGCは1934、50、71、81、2013年に全米オープンが開催されたが13年の大会では全長が6996ヤードと全米オープンの会場としては短すぎて好スコアが続出するだろうと非難されたが、優勝したJ・ローズのスコアは1オーバーだった

メリオンGCを造るときジョー・バレンタインを連れて英国のゴルフ場を視察したが、サニングデールGCで見たウィッカーバスケットのピンフラッグを採用することに決め、フィラデルフィアに戻るとピンの先端に取り付けるバスケットを製作してくれる店を探した。その店が香港に注文しコースに40本が届いたのは6カ月後だった。

画像: メリオンGC建設のために視察した英国のサニングデールGCで当時使っていたウィッカーバスケットのピンを模して採用した

メリオンGC建設のために視察した英国のサニングデールGCで当時使っていたウィッカーバスケットのピンを模して採用した

現在、世界中見渡しても採用しているコースはほとんどなく、今ではメリオンGCのトレードマークとなっている。

画像: 1950年全米オープンで優勝したのは交通事故から復帰したベン・ホーガンだった。最終日、最終18番の2打目を1番アイアンで打ち首位に並び、翌月曜日のプレーオフを制した。後方から撮影された1番アイアンのショットは最も有名なゴルフ写真とされる

1950年全米オープンで優勝したのは交通事故から復帰したベン・ホーガンだった。最終日、最終18番の2打目を1番アイアンで打ち首位に並び、翌月曜日のプレーオフを制した。後方から撮影された1番アイアンのショットは最も有名なゴルフ写真とされる

【アルバート・ウォーレン・ティリングハースト(1867〜1942)】
彼の設計コースはUSGA競技を最も多く開催

ペンシルベニア州フィラデルフィアでゴム製品を製造する会社のオーナー、ベンジャミンの息子として裕福な家庭に生まれた。幼少期は気性の激しさから通っていた学校を卒業できなかったが、音楽や絵画、写真などを得意として芸術的な才能を持ち合わせていた。

画像: バルタスロールGCを改造したR・T・ジョーンズSr.は「4番ホール(186Y・P3 )が難しすぎる」と言われ、検証のためコース役員とプレーをするとホールインワン。「そんなに難しくないよ、1打で済んだじゃないか」と言ったという

バルタスロールGCを改造したR・T・ジョーンズSr.は「4番ホール(186Y・P3 )が難しすぎる」と言われ、検証のためコース役員とプレーをするとホールインワン。「そんなに難しくないよ、1打で済んだじゃないか」と言ったという

1890年代にスコットランドに渡り、トム・モリスから直々にゴルフを教わり、後に全米オープンなどに出場できるほど上達して1910年フィラデルフィアクリケットクラブで行われた全米オープンで25位に入っている。

画像: 1929、97、2006、16年に全米オープンを開催したウィングドフットGC

1929、97、2006、16年に全米オープンを開催したウィングドフットGC

07年に友人から依頼されてショーニーCCを手掛けたのが最初の設計で、その後コース設計の会社を設立している。友人にはメリオンGCを設計したヒュー・ウィルソンやパインバレーGCを設立したジョージ・クランプなどがいて、13年にはパインバレーGCの2ホールを設計している。

画像: パインバレーGC 7番の航空写真(左)、パインバレーGCのために描いた7番ホール、通称“地獄のハーフエーカー”のラフスケッチ(右)

パインバレーGC 7番の航空写真(左)、パインバレーGCのために描いた7番ホール、通称“地獄のハーフエーカー”のラフスケッチ(右)

本業の傍ら小説家として2冊書き上げ、詩人でもあり”アメリカンゴルファー”誌に記事を寄稿していた。ティリングハースト設計コースでは多くのメジャー競技が行われているが、なかでもバルタスロールGCでは1903、15、36、54、67、80、93年と7回、ウィングドフットGCでは1929、97、06、16年に全米オープンが行われている。

生涯に265コース以上設計。37年カリフォルニアのパサディナに移り、コース設計会社とアンティークショップを経営した。

構成・翻訳/吉川丈雄(特別編集委員)
参考文献/American Golfer、THE GOLDEN AGE of GOLF DESIGN、
GOLF COURSE GUIDE TO THE BRITISH ISLES、
The World Atlas of Golf、The Glorious World of Golf、The MacKenzie Reader

※週刊ゴルフダイジェスト1月28日号「珠玉のコースを造った設計者たち」より

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