
プロ2年目の1971年(左)と2022年アカデミー選考会(右)の尾崎将司
まさに巨星墜つ、という表現がふさわしい。ジャンボ尾崎の愛称で親しまれた尾崎将司(プロ入り時の名は正司)が泉下の客となった。1年前にS状結腸ガンステージ4と診断されたが、療養に病院ではなく、“ゴルフの城”である自宅を選んだのは一徹の尾崎らしい。享年78歳。
尾崎は団塊世代で1947年、徳島県宍喰町生まれ。幼少の頃から身体的能力が高く、スポーツ万能だった。この遺伝子は予科練の教官だった父親から受け継いでいる。この時代のスポーツ万能な子どもが選ぶのは野球。尾崎も例外ではなく徳島県立海南高校では投手で4番バッター、そしてキャプテンのワンマンチーム。選抜で優勝の栄誉に浴し、西鉄ライオンズに入団。将来を嘱望された。しかし、尾崎はここで挫折する。同期で入団した池永正明に「野球でこいつには敵わない」と。本格的速球投手だった池永に対し、尾崎は典型的カーブ投手。そこに限界があった。しかし、そのカーブを自在に繰り出す右手・右ひじには非凡な才が潜んでいたとみるべきだろう。ゴルフでのアプローチの絶妙な球捌きにはこの右手が活かされた。

1969年戸塚CCで実施されたプロテスト。上から3番目に尾崎がいる
3シーズンで野球を断念し、オフに始めたゴルフに魅力を感じ、紆余曲折を経て1970年にプロ入り。以来、以下のような傑出した足跡を残している。
国内ゴルフツアー94勝(メジャーは日本プロ6勝、日本オープン5勝を含む20勝)、総合的優勝113勝。賞金王12回など圧倒的数字が並ぶ。これらの記録には尾崎しかなしえなかった2つの偉業が潜む。これらを分析してみよう。

1971年の日本プロの表彰式の様子。中央で拍手をするのが尾崎将司
プロテスト合格した次の年の71年に日本プロ初優勝、それから瞬く間に5勝をあげ、日本ゴルフ界は沸き立ち始めた。それまでのプロゴルファーの世界はいわば“職人”の集まりだった。それを180センチの大型選手が300ヤード近いドライバーショットを放ち、爽やかな容姿もあいまってゴルフ界のみならず一般社会も注目し始めたのである。いわばプロゴルフの世界にアスリート降臨という図式だった。「心・技・体」ではなく、「体・技・心」。それが尾崎の口癖だった。
プロトーナメントの数は1970年は大小規模併せて29試合だったが、71年尾崎デビューをききつけたスポンサーは駆け込み需要で、37と増大。そして72年には43と急増。ついに73年にはツアー制施行となって、賞金ランク制度も整備された。

1971年小社がかつて主催したゴルフダイジェストトーナメントでも尾崎将司は優勝した
つまり尾崎がたった1人で国内ツアーを“創生”したといっても過言ではない。尾崎は後に「下積み時代があってはスーパースターは生まれない」と豪語したが、なるほど米国のアーノルド・パーマーしかり、帝王ジャック・ニクラスしかり。デビューからいきなり頂点へと上り詰めている。

40歳の節目のマスターズでの一コマ。青木功(当時44歳)と笑顔で談笑する尾崎
もう1つの偉大な数字は、40歳を過ぎてから全盛を迎えているということ。40代の1987年~96年の10年間に51勝をあげているのだ。ゴルフは経験で培われるメンタルと肉体的充実が交わる年齢が30代半ば~後半といわれるが、40歳以降に2回目のピークがくるとは古今東西、前代未聞のことであろう。

当時は誰もが憧れた「J'S」のロゴ
尾崎の40歳代頂点を信じた男がゴルフ用品界にいた。ブリヂストンスポーツ(以下BS)で尾崎三兄弟を担当していた田中徳市氏(現法政大学ゴルフ部監督)だ。1979~85年まで深刻なスランプに陥っていた尾崎の再契約を渋っていたBSに、田中は再契約を押し通した。3文字は商標登録が必要だが、その必要のない2文字のJ’S(ジャンボ、ジェット、ジョー3兄弟の頭文字)ブランドで、300億を稼ぎ出したという。BS全体でも500億の売り上げだった時代にだ。田中はその後も尾崎を慕い続けて現在に至っている。

羽子板を用いた尾崎が考案した「ハゴミントン」。83年正月に自宅トレーニング中の一枚。尾崎はアイデアマンだった
閑話休題。小社トーナメント班“尾崎番”として取材陣の片隅にいた編集子は、何度も習志野邸へお邪魔した。クリスマスイブパーティー、オフのトレーニング実地体験、対談などで。対談で思い出すのは1983年8月8日深夜、習志野の尾崎邸。インタビュアーは、今は亡きスポーツライターの山際淳司。振り返れば、その年はスランプ期(1979~85)の真っただ中、メタルドライバーの使用を開始して、復調を探っている年でもあった。それでもマスコミに言い訳をしたり、その全貌をさらすことのなかった尾崎を説き伏せてのインタビューだった。尾崎はいまや常識となった「ボディスウィング」を熱く語っていた記憶がある。
ともかく、そんな時の合間に2人だけになることがあった。その時の尾崎の気の遣いようは、試合での顔、普段大勢の中にいる尾崎とは別人だった。「ああジャンボさんの本質は優しさにあるんだな」と、この時思った。この優しさは勝負師には不要と隠し、バリアーを張って生きているのだなとも思った。
もう1つ。個人的なことでいうと、1983年7月6日号から週刊ゴルフダイジェスト誌で連載をはじめた『ジヤンボくん』でのエピソードだ。手前味噌ながら人気を得た4コマ漫画だった。その時代、試合で頻発していたOBをオザキボールと称し、欄外に「今週のOB〇号」と野球でのホームラン数よろしくナンバーリングしていった。これにはマジ怒られた。「俺はね、リスクを冒して理想の戦略ルートに挑戦していて、OBになろうとも、次も同じ球を打つようにしている。その挑戦を茶化すとは何事だ」というわけである。
話を戻す。国内では前人未踏の活躍をみせた尾崎も、惜しむらくは海外で成績を残せなかったことだろう。

1973年マスターズで日本人初のトップ10入りを果たした尾崎
1973年、マスターズ8位、当時の日本人初のトップ10入りだった。89年全米オープン6位。米国での食事が苦手。ある時、飛行機で墜落しそうな目にあったことも影響しているかもしれない。
当時、全米オープン解説者の川田太三氏は「せめて1年でも参戦していればメジャーを獲ったと思う。それくらい能力が高かった」と惜しんだ。

エージシュートを達成した13年のつるやオープン。優勝した松山英樹と並んで(撮影/西本正明)
2013年、66歳で62のエージシュートを達成したが、シニアツアーには「俺は生涯現役だから」と、1度も出場しなかった。こうと決めたら梃子でも動かない一徹さがここにも発揮されている。
晩年は若手育成に情熱を注いだ。海外メジャー2勝の笹生優花、海外メジャー1勝の西郷真央、国内メジャー3勝の原英莉花、今年の国内女子ツアー年間女王、佐久間朱莉らを育てた。
昨年、団塊の世代、異才・坂田信弘が逝き、その坂田を異能として認めていた天才・尾崎が人生の幕を下ろした。合掌
ゴルフダイジェスト社特別編集委員
古川正則







