私には運がある。本職であるツアープロとしての勝負運はどうもなさそうであるが、勝負の流れを見る運はありそうである。
最終日、私は午前中5ホール、中島についた。球は飛ぶし正確そのもの。ショットに関しては同伴者マーク・マッカンバーよりも数段安定感がある。マッカンバーは今日65、通算290、18位タイ。中島は73、通算298、47位。その差はパットにある。
今週の中島はグリーンに苦しんでいた。今一つ打ち切れぬ面もあるし、ラインを把み切れぬあせりもあったように思う。今週の中島はかなりの欲求不満を覚えているはず。
その後アウトの青木功に3ホールついた。そして昼より15番グリーン左のギャラリースタンドに坐った。一時はトップに3ストローク差まで迫った青木功がやって来た。15番グリーンをパーで終え、16番ティに向かう時非常に爽かな笑顔を見た。
青木功は稀代の勝負師である。彼の安堵するような笑顔を見た時、マスターズを制する日本人の夢は一年先に伸びたと思った。16番ティの表情が柔らげである。
私は日本国内試合中、彼の表情を何度も見ている。今日16番で見た顔は私自身もほっとするような顔である。289ストローク16位タイ。毎年夢を見させてくれる青木功、中島常幸はたいした男である。
勝負を結果から評論、批判するのは評論家の仕事である。私は勝負に野心を持っている。野心持つ者は途中経過を論ずるべきと思う。現役の人間の評論は本来生々しさが魅力ではなかろうか。私は過去において勝負運というものは否定してきた。努力のみが結果を作るものと己れ自身に言い聞かせてきている。しかし今日私は勝負の流れを見た。目の前で85年マスターズの流れを見ることが出来た。
運とは勝った人間だけの特許かと思っていたが、勝負運の流れというものは勝者、敗者にも存在するように思う。
ランガーは15番奥のエッジより2パットでバーディ、6アンダー。同伴者バレステロスもバーディ、4アンダー。14番終えたストレンジ、6アンダー。この時点で並んでいる。
15番は右より順風。ストレンジフェアウエイ中央よりアイアンでセカンド打った。この球が池に転がり落ちる。ボギー5アンダー。同伴者フロイド、バーディ4アンダー。
16番、偶然であろうがフロイド、ストレンジまったく同じ位置に乗せている。フロイドが先に打てばラインわかる分だけ後に打つストレンジ勝負の流れを変える機会が生まれてくるはず、そう思った。私の意見は独断である。読者諸兄は納得できぬと思う。しかしその時私はそう確信している。ストレンジが先に打った時点でランガーの勝ちであると。
私自身このパットを入れるとなんとか勝負の形はつくという試合、何回かは経験している。もちろん入れられなかった。
私は世界の戦う者の祭典マスターズ、15番、16番ホールで今日確かに勝負の流れが変わって行くのを見た。
私はギャラリースタンドに坐ったのはオーガスタが初めてである。そして最終日その席で勝負運というものを見たように思う。
私はある運を持っていると思う。ランガーが18番、ストレンジが17番グリーンにいる頃、私は15番グリーンよりティに向かって歩いてみた。ストレンジのセカンド地点を確かめてみたかった。そして13番、12番と歩いてみたのであるが、ちょうど6時20分頃、春の太陽がかなたの森の陰に隠れた。どんよりとした灰色雲とうす青い空が残っている。
後で聞けば18番でもプレーオフのチャンスがストレンジにはあったということである。85年マスターズは16番ホールで決まったと思っている。
だいたい私の知るゴルフコースはスコア保険の効くものである。難しいホールもあればそれに見合うイージーホールもある。このオーガスタは保険が効かぬ。保険効きそうなホールがその保険料極めて高い。狙いに行くと大ケガする場合が多々ある。それでも狙わねば生き残れぬ。逃げていては勝負の形にならぬ。そもそもグリーン上には逃げる場所がないのである。
サディスティックにプレーヤーを攻めるコース、そしてそこから逃げれば敗者となる。そこに、勝負の流れ、運が大きな要素となる。
オーガスタナショナルGCを舞台とした“サバイバルゲーム”は、西ドイツの孤狼、B・ランガーの勝利に終わった。孤狼がゆえに、マスターズというサバイバルゲームに耐え、逃げることなく牙をむき運をひきこみ勝負を自らの手におさめた。
今、ただただランガーに拍手を送る。
※本文中の表現は執筆年代、執筆された状況、および著者を尊重し、当時のまま掲載しています。
※1985年5月1日号 週刊ゴルフダイジェスト「坂田信弘のマスターズゲリラ日記」より